COLUMN
Vol.3 【傘の下の日本の文化】
傘の形体に類似するものを世界史全体でみると、古代エジプト文明やメソポタミア文明のリレーフに画かれているものがあります。よって傘の発生もこれら西域文明において興ったものと考えられます。当時の主な使用法はというと、雨具としてではなく、時の権力者に日が当たらないようにするための日傘として使用することが多かったようです。
アジアにおける傘の使用は、やはり文化の中心であった中国から伝範したものだと推測できるのですが、それがいつ頃に西域から伝わったものなのかは定かではありません。しかしながら、甲骨文にもその意味する文字が既に作られていますので、かなり古い時期に伝わっていたことは確かなようで、現物の考古資料としては秦の始皇帝の兵馬稜から天蓋を付けた馬車が何両か発掘されています。
日本における伝来時期は、史書から特に見出だすことができないのですが、古墳等の考古的資料の中では、幾つかの使用画を見ることが出来、高松塚古墳の人物画の中にも天蓋をかざされている高貴な女性が画かれています。傘自体においても、おそらくは大陸との交流が始まった頃に、諸々の生活具と共に伝来していたものだと思われるのですが、使用法は古墳に画かれている様に、主として大陸文化と同じく日傘として使われていたと推測されます。
書籍資料を見ると、往古は日傘を蓋とかいて「きぬかさ」と読み、四位以上という位でなければ差せなかったとされ、平安期に於いては古代貴族達のステータスシンボルとして限られた者達に普及していったようです。また、その後に引き続く室町時代にも、傘の使用は個々の武将の所在を示すものとして使われていたり、城からの降伏のサインとして天守閣に掲げられるなど、そのシンボル性の面が強調される形に発展していきました。
現在のように雨の日の雨具として使用するようになったのは、実は江戸時代に入る頃からでした。ではそれまではどの様に雨を防いでいたかというと、把手のない頭に直接被る笠を主に使用していたのです。何故かといえば、その理由は日本文化の職業性にあるといえます。例をあげて考えてみますと、武士なら移動の際にでも槍や弓等の武器を持っていたであろうし、農民なら鋤や鍬のような農具を持たずしての移動は稀であったと考えられるからです。つまり、昔の日本の職業というのは、現在と違って限られた時間のみの業務と違い、日常の生活を通した人生そのものであった為、単に移動するということを取ってもそこに自身の職業から影響された必要性がついていたと考えられるからです。
雨傘としての傘の使用法は、社会が安定性を持つようになった江戸時代に関西方面から普及されはじめたといわれています。
この傘の雨具としての普及にも諸説ありますが、先に書いたことを踏まえて考えてみますと、当時社会の主軸であった武士が、本来の警護し戦をするといった仕事から離れていったことや、町民といった決まった業種を持たない人々が巷に増えていくといったことが、手で傘を持って雨を防ぐ様になった主な要因なのではないかと考えられるのです。
これを現在の時代と比較して考えてみますと、傘というものは情報と時間の溢れた時代の産物であると同時に、一つの指標を指し示す一種のステータスシンボルでもあると考えられ、そこには混沌とした時代には一つの指標を示し、安定した時代においては平和な生活のシンボルとして常に日本文化を覆ってきた経緯があったと考えられるのです。
我々TOKUSAでは、以上のような時代背景を考慮した上で、第三段目の商品「日向太」を打ち出しました。この「日向太」は、日本文化を再隆盛させたいという我々の願いの形でもあるのですが、同時に雨の日や日差しが強い日中でもその季節感の風流を楽しみ、傘を開いた一人一人が様々なシチュエーションで日本文化と繋がっていくものであると、自信を持って紹介できる商品となっています。
2005/10/25
太夫 廣木健太郎
hiroki@tokusa.net
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